2022壬寅
謹賀新年
旧年中はありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
著作の基本部分(=第1部)が、あまりにもお粗末だったので、約1年をかけて加筆修正しました(7倍増)。これで何とか足場が組み上がりましたので、本年こそは東京裁判論に取り組むことにします。
↑いや、これには手間取ってしまいました。ニュルンベルク裁判に関する考察を一応完成したことにしてアップしたのが2020年7月28日でしたから、それからすぐ東京裁判の考察に取り掛かろうと思ったのですが、そうしてみると、初めに書いていた基礎(を成す筈の)部分つまり第1部が、どうにもお粗末というか貧弱であることに気づき、これでは、このまま進めようとしても、砂地の上に櫓を拵えようとするようなもので、遠からず崩壊することは避けられないと思わざるを得ませんでした。それで、第1部大幅増補の作業に取り掛ったのですが、少しぐらいの加筆で済むようなものではなく、相当の悪戦苦闘、結局、量的には約7倍(本文に限ってみれば4万字→30万字)に膨れ上がって、ようやく昨年末(12月14日)、アップに至ったという次第でした。
ともあれ、これで本年はいよいよ東京裁判論。自分の年齢を考えれば、完全に時間との戦いになってきましたが、実は、私、こういうのが好きなのです。現役中は、学校の紀要などに論文を出すことを約束したら、迫り来る原稿締め切りのプレッシャーを楽しみながら、まことに際どくデッドラインぎりぎりに編集部に原稿をドサッと抛り込んで、「ヤッタ\(^_^)/」という快感に浸るのが、毎年恒例になっていたものです。その喜びで大学教員続けられたといっても過言ではないと思います。今いよいよ人生の大詰め、本当に最後の最後の、文字どおりのデッドラインにも、ちゃんと間に合わせて見せる、と心に決めています。
東京裁判について考えてみようとすれば、読むべき文献、研究書等、限りなく多くあって、正直、とても読み切れないので、こちらで或る程度絞っていくしかないのですが、現時点で、自分なりの評価を働かせて見ているところでは、やはり清瀬一郎の陳述、東條英機の供述書(渡部昇一の解説付きで出ている)、パル「判決書」などが、裁判条例、起訴状、判決書といった資料と並んで、とりわけ重要性を持っているように思われます。これらのものをどこまでしっかり読み込んだ上で、自分の考えるところを纏めて表現できるか、というところに成否がかかっていると考えています
そんなわけで:
第1部 2つの「無条件降伏」――同質に非ず ⇐やっと増補出来
第2部 戦争犯罪人の処罰
A ドイツ国民をではなく、ナチス・ドイツを裁く ⇐既刊
B 日本国民も一体化していた大日本帝国を裁く ⇐今ココ取り掛かり中
第3部 憲法あるいは基本法の作成
A 後に実質憲法と認められる基本法が作られる
B 後に永久不変とみなされる占領憲法を作らされる
第4部 領土の画定
A 攻め込んで攻め返された結果なら納得?
B 盗人呼ばわりされっ放しになっているのだが
第5部 防衛体制の再構築
A 集団的自衛権行使のためならOK?
B 戦闘不能者に防衛力を持たせる?
第6部 象徴天皇制を抱きしめて――どこまでも特別な国として?
どうぞよろしく
それにしtも:
……最後にもう一度、元祖「精神現象学」に言及させていただきたい。ヘーゲルは、筆者などとは違って、敗戦経験から出発する必要を感じていなかった――プロイセンのナポレオンに対する敗戦のことは、そこまで深刻に気になってはいなかったようだ――から、普通に認識論的な観点で、知を形成する人間意識が、最も素朴な段階から出発して対象の現われに応じて次々に形態を変えていく様を叙述した。その各段階において、その都度、意識のそれまで被っていた制約を露呈し、それの束縛から意識を解き放っていったのである。だから、彼の「精神現象学」は、その最終段階において、完全に脱制約的な意識の状態を達成して完了する。そして、その基盤の上には、今や何らの障礙も隠蔽もなく、十全に展開される本来の知の体系――つまり哲学――が構築される筈である。実際、ヘーゲルは、「精神現象学」によって準備された基盤の上に、あの有名な哲学体系を築いて見せたのであった。
↑この記述(第1部15ページ)は、私としたことが、何ともお粗末でした。面目ありません。訂正も含めた補足説明が必要と気づきましたので、本文の方に書き加えておきますから(1月3日までには)、また目を通しておいていただければ幸いです。