【2019年3月30日】 仕事が遅れていることの言い訳

「ニュルンベルク裁判論を約14万字書きましたが、まだ完成していません。春頃にはupしたいと思っていますのでよろしく」――年頭にこう書いたにもかかわらず、まだupする見通しが立たず、公約に反することになってしまいそうなので、まことに面目ない思いである。この3ヶ月の間もがんばって書き続けて字数24万弱にまでは達しているのであるが、最後近くのヤマ場に至って、どうしても、ヒトラーその人の言を参照しなくてはならぬ必要性を感じたので、『我が闘争 Mein Kampf』を最初から読み通すことにしたために、予定外の時間をかけてしまったのである。原文で読むのは実は今回が初めてなので、それを取り寄せて27章780節にわたる全文を読み切るのに、1か月ほどかかった。つい数日前にようやく読了したところである。それでまた書き進むことができるようになったので、残りの分の仕上げに励むことにして、予定よりはかなり遅れるが、夏のうちにはupできるのではないかと思う。総字数は40万に近くなるかもしれない。そんな事情ではあるけれども、自分から期限を切っておきながら、それに違反して大幅な遅れを惹き起すなど、本来許されてはならないことであるに違いない。謹んでお詫び申し上げます、ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。

だがそれにしても、なぜまた、『我が闘争』にまで戻ってみる必要があるなどと思ったのだろうか?この問いにできるだけ簡単に答えてみるならば、要するに、ユダヤ人大量殺戮に対して、ニュルンベルクの被告人たちのうちで誰に最も大きな罪責が帰せられるべきであるか、と考えたことがきっかけになったのである。しばしば指摘されることかと思うが、ニュルンベルク裁判では、検察は、アウシュヴィッツに極まったナチスのユダヤ人殺戮について、その実態をしっかりと暴き出しはしたが、具体的に被告人たちのうちの誰をその原因者として特定するか、という詰めに甘さを残した。ユダヤ人殺害に関して「人道に対する犯罪者」として告訴された被告人すべてに、自分がどの残虐行為に関与した者として責めを負わねばならないか、ということを納得させるには至らなかった。裁判の終わった時点で、関与を自ら認めたのはわずかに2人、フランクと、もう一人は、きわめて限定的範囲において、シーラッハだけであった。その他の者は、否認したままで、関与の可能性が高いからというだけで、有罪判決を受けたことになる。SD長官だったカルテンブルンナーも、そこに含まれる。彼の場合には署名した命令文書も押収されていた――彼はそれを他人による偽署名であると強弁したが――のだから、物証によって有罪が十分に裏付けられたとみなしてよいのであろうが、本人はあくまで自分には命令権は一切なかった、SDの行動はすべてヒムラーの命令によるものであったのだから、今自分がヒムラーの身代わりで責めを負わされるいわれはない、と主張して譲らなかった。さらに極端な例は、シュトライヒャーである。彼は、週刊タブロイド紙にポルノグラフィーまがいの戯画を載せて、ユダヤ人に対する誹謗中傷の限りを尽くしたアンティセミティズム煽動者であり、法廷でも改悛の様子をまったく示さなかったため、いっそうの憤怒を買ったのであるが、彼が、いずれかのユダヤ人迫害行為に対する具体的な原因者であることは、法廷ではついに立証されなかった。逆に彼の方が、取り調べの際に憎しみの情からひどい拷問を受けたことを暴露し訴えて、告発しようとする態度に出たのである。結局彼は、煽動者としての働きから、ユダヤ人迫害全般に対する実質的原因者にあたる、という漠然たる見なし判断によって有罪判定され、死刑となった。この量刑は適切ではなかった、と評する法律専門家は少なくない。処刑の日、刑場まで引かれていく際に、彼は誰よりも激しく抵抗したという。

私は、この度ニュルンベルク裁判の記録を調べていくうちに、この問題点に行き当たらざるを得なかった。私はこれを、いわばニュルンベルク裁判の限界を示す一面と見る一方で、実際の裁判の経過とは別に、ユダヤ人殺戮の罪責を最も重く負うべき者は、ヒムラーのいない、ニュルンベルク被告人席のうちの誰であったのかを、自分なりに考えてみたいと思った。そして、それはローゼンベルクであろうとの見方に達したのである。あれだけ多数の異民族の人間を、あれだけ残酷な方法によって、絶滅させようとする企ては、血統への妄執に憑かれた者の仕業としてしか、起こり得なかったであろう。自民族(「人種 Rasse」という概念の下に「北方人種」とか「アーリア人」と好んで称された)の優秀性を確信してその血の純粋性の追求に最高の価値を認め、他方、自分たちの生活圏の妨げとなり、混血を惹き起こして文化を頽廃させるとみなされた劣位の人種を排除し殺害して、その血統を断ってしまう――ユダヤ人大量虐殺は、こういう考えの下にのみ行なわれ得たのであり、その意味でそれは、ローゼンベルクが『20世紀の神話 Der Mythus des 20. Jahrhunderts』の中で唱えた「血の宗教」が実践に移されたものにほかならない――もちろん、実践者としてはヒムラーが主役であったが――といえるのだ。『20世紀の神話』は、ナチスがまさに躍進しようとしていた1930年に初版が刊行され、以後、『我が闘争』と並ぶナチス運動の経典と位置づけられて、ナチスが政権に就いた後も、その主催する集会や行事の度毎に参加者に配られたので、計百万部以上が出回ったといわれている。ただし、この書物がそれだけ多くの人々の手に渡ったといっても、ではいったい、どれだけの人が、それを読んで分かったと思えたのか、あるいはそもそもその晦渋な文章を読んでみようという気になれたのか、といえば、それは何とも心もとない話であり、この書物が一般に与えた影響というものは、おそらく『我が闘争』には比べ物にならなかったであろうと思われる。だから私は、ローゼンベルクの影響の深刻さを指摘するに、『20世紀の神話』を拠り所としようとしているのではない。私がいおうとしているのは、ローゼンベルクの思想は、もともと「血の宗教」的世界観形成の方向を目指すものであったのであり、彼は、その内容を非常に早い段階――1920年代初めのナチス結党期のミュンヘン――においてヒトラーに吹き込んで、ヒトラーの反ユダヤ人感情――ウィーン時代にあっては、それはもっぱら政治的・経済的な現状判断からくるものであったようだ――を、おどろおどろしい血統信仰的色彩の濃い世界観に練り上げるのに、決定的な役割を果たした、ということである。『我が闘争』の叙述から、それは間違いなく読み取ることができると思うのだ。ここでようやくいえるわけだが、そう考えて今回『我が闘争』を読むことになったのである。

で、そこからどういうふうに読み取ることができるのか、ということだが、それはこれからまとめなくてはならないところなので、今はまだ、ということでご了承願うとして、とりあえずは現状報告までに